諸葛孔明・三国志・赤壁の戦い・上海・レッドクリフ

2009年09月12日

このブログの構成
イ 三国志の中の諸葛孔明をピックアップして、---
ロ 主な登場人物の簡単な経歴と似顔絵??!をお絵かきした。
ハ 第一回はじまり、下方に向かって、記述してあります。
   現在、第六回まで、記述しました。

三国志・諸葛孔明・赤壁の戦い・上海・レッドクリフ
三国志の中の諸葛孔明をピックアップして、諸葛孔明が何を考えていたか、どうしていたのか、いつ、どこで、などを
私流に解釈して、述べてみたいと思う。 さて、私の考えた独自の諸葛孔明とは・・・・・・
諸葛孔明・三国志・レッドクリフ

登場人物の似顔絵                     
























似顔絵左から、劉備元徳・諸葛孔明・雲長関羽・猿人張飛・曹操・孫策・孫権

劉備元徳・・・・・・田舎に住んでいて、職業は「わらじ作り」、せっせとわらじを作って、お金を貯めて、当時では、高貴なお方しか飲めなかった「お茶」を買い、お母さんに飲ませようとした位の親孝行者、しかし、先祖伝来の素晴らしい佩刀(刀)は、漢の国の末裔であることを証明した。レッドクリフのときに劉備元徳が、何故、わらじを編んでいたかは、このような境遇の人だったので、上の地位になっても驕ることなく、隠すことなく、ありのままを見せたという、立派な行いというように感じたから、レッドクリフでもあえて、その場面を再現したに違いない。

諸葛孔明・・・・・昔からの諸葛家の名門であるが、諸葛孔明は、早くから、勉強に励み、若くして、軍師としての軍略、天文学はじめ、あらゆる学問を修めて、自分はもう、文字の勉強ではなくて、実際に、使用したいと思った。だから、若干24歳ころから、隠遁生活をして、天下国家の趨勢をしっかりと見て、今後の中国の流れを読んでいた。そこへ、登場したのが、劉備元徳であった。ただ、ひとつ、劉備 元徳が、お願い行かなかったら、どうなっていたか、わからないが、他の国から、招聘は、なかったしい。三国志の中の諸葛孔明の采配は見事だったが、諸葛孔明は、最後になって、軍師と蜀漢のトップを兼任したが、これは、私だけの考えだが、軍師は、コンサルタントはその会社の社長になってはならないということをもっと考えるべきであったと思う。
何故かというと、トップでは、上から見るので、軍師の仕事と視線が違うので、いろいろと見えなくなってしまうので、トップに就任すべきではないかとも考える。諸葛孔明は長く生きたいと思えば、軍師とトップの二兎を追ってはいけなかった。
その二つの仕事をしたことから、心身ともに疲労してしまい、早死にしてしまったのではないかと思う。惜しいと思う。

雲長関羽・・・・・勇猛果敢、この人にかかると何でも可能になるほどの武術の達人であり、義理人情を大切にする人物、今でも中国では、雲長関羽は、そろばんの神様→商売の神様として、あがめられている。
礼儀作法・高貴な人物であり、レッドクリフのときにも、初めて出てきたときには、舞台から、役者が出てくるような「槍を格好よく、回しながら登場」したことが、普通の武術だけの人間ではないことを表現していたと考えている。
三国志の中で曹操に捕らわれて、捕虜になってしまっても、どんなに曹操が良い対応をしても関羽の信義誠実さは変わらず、最後は劉備元徳のもとに帰ってしまうほどの人物だった。

猿人張飛・・・・・なんといっても当代随一の元気印の武術家であり、何でもこい、あいてになってやるわい!!という、力づくで、何でもやっつけてやるというほどの豪傑、職業は、豚やさんだったとかで、観光地には、張飛のお店が出店して稲ことがある。本ブログの第4回の写真を掲載してあるのでご覧ください。


曹操・・・・・この人ほど、戦いに負けた人はいない。しかし、根っからの人間性は、負けを認めて、次の戦いにたち向かうという、
気力にあふれていた。むしろ、負け戦の中にこの男の美学があったと思う。吉川英治著野中で劉備元徳軍と戦って、諸葛孔明の戦略にはまり、1回目に負けると「オレダッタラ、ここで、次の戦術を考えるのに・・・」というと、劉備元徳軍はそれを待っていたとばかりに、2回目を攻めた。やっとのことで、逃げることが出来たなら、また、「オレが軍師だったら・・・このときにこそ、滅ぼすチャンスなのに・・・」というとそれを待っていたかのように徹底的な敗北まで、叩かれた。このように曹操は、実力があり、大軍を率いていたので、大局を見るのに敏感であり、自分の敗北さえ、ここで、オレなら、こうするのだがという、人には、追随を許さない感性を持っていた。そして、曹操は、一人、この戦いの敗北を詩にたとえて、吟ずることが、多かったらしい。その中の私の一番好きな詩が、「梅酸はさんなり、敗戦もまた酸なり、同じからずといえども似たり、心舌を超えて甘し」という言葉である。つまり、負けを認めても、心の中の負けは認めない。余力を持っていた。曹操が、負けたにもかかわらず、魏の国が滅ぼされなかったのは、いつも戦いは、蜀や呉の国で、戦っていたので、自国は安定していたからであると思う。

孫策は、日本では、「孫子の兵法」で知られている「孫武」の子孫で、父親は、「孫堅」の長男が「孫策」である。
兄孫作の死後、19歳で孫氏の統領となった孫権は、父と兄の国を受け継いだのである。
蜀(劉備元徳・諸葛孔明)は、263年に滅亡し、その後、呉の国は、280年には、蜀の国と同様に晋の国に降伏して、この国も滅亡した。晋の国とは、「魏-曹操の建国した国にクーデターを起こした司馬懿(シバイと読む)の後継者の司馬一族が支配することとなった。

                          **似顔絵は ツカエルサイト で作成しました。





レッドクリフpartⅠ& partⅡ
三国志の中の・諸葛孔明をピックアップ 



第一回
              敬称略

レッドクリフpartⅠ& partⅡは、三国志の中の前編、あえて言えば、諸葛孔明をピックアップして、いかに素晴らしい軍師であるかを強調した物語であると思う。

私が昔、昔、若い頃、吉川英治著の「三国志・10巻」・初版発行は、1957年(昭和32年)3月で、購入した本は、1965年(昭和40年)4月第26版発行を全巻で、金額2800円だった。  

私の当時の厚生年金報酬月額を調べてみたら、「20000円」だったから、高価な買い物だった。だから、現在も捨てられず、大切に所有している。

そして、仕事の流れの中で、苦しみを感じたとき、何十回となく読んできだ、特に「諸葛孔明の人間性」と「戦略・戦術・実践」については、楽しく、そのころから、いつかきっと諸葛孔明のような人間になって、活躍をしてみたいと、常に思っていた。

特に、いろいろな本に、「諸葛孔明」の人となりが表現されているが、その中の多くは、「中々の美男子」「いと、眼元涼やかなり」「目が清清しい」などと書かれていたので、自分もそんなところに目標を置いていたのかもしれない。

「レッドクリフpartⅠ& partⅡ」の中の諸葛孔明を扮する「金城武」もそのイメージを損なっていないし、むしろ、諸葛孔明の人気をあげたといっても良いと思える。 

また、吉川英治の三国志には数々の詩(うた)があり、実際には私の若い頃の経験の多くは、「挫折と失敗の連続」であったが、悲嘆にくれたときには、この三国志を読みながら、経験を積み、こんにちのように、ようやく、「人生の満足感」というものは、このようなことだとしみじみ感じられるようになって来た。

負けをしり、そして、「挫折の連続」の頃の詩(うた)は、曹操が敗戦のときに自らを鼓舞した詩を私も歌ってきた。
「梅酸は酸なり、敗戦もまた、酸なり、同じからずといえども似たり、心舌を超えて甘し」     と、

また、自分に負けるのがイヤだったから、ファーストの一節も座右の言葉として、口づさんで、人生に直向(ひたむき)に活動してきた。

それは、
「新しき願望が目覚める、女神の永遠なるが、光を飲みたさに、昼を面にし、夜を背にし、己は駆ける」
という自分に対する誓いの言葉だった。 (訳者、出典先不明です。知っている方は教えてください。)

さて、諸葛孔明という人は、当時は、どう生きていた人だったろうか。劉備元徳の軍師として、有名であるが、その諸葛孔明ですら、劉備元徳に出馬をお願いされなければ、世に出ることは無かったと思う。

諸葛孔明の先祖のことについては、いろいろな本を読んでみると、かなり、古い家柄であったようだ。現に、諸葛孔明にも大いに関係していたらしい諸葛村が、中国に生き残っているからだ。

当時の中国の個々の国は、それぞれ、ひとつの国として、独立していたと思う。だから、名軍師の諸葛孔明を採用する国は無かったのではないかと思う。

故に、隠遁生活を余儀なくされていたと思う。諸葛孔明は、きっと、誰かが、私を迎えにきてくれるかもしれない。もし、迎えに来てくれる国がなかったなら、この地に埋もれてしまっても、仕方がないという、気持ちで、住んでいたに違いない。ある意味では、自信があったから、「果報は寝て待て!!」という、心境だったかもしれない。

このようなときに、劉備元徳という人が、軍師になってくださいと3回もお願いにきたので、国の将来について、大変詳しく、話が出来、劉備元徳と諸葛孔明が、お互いに義兄弟となったところから、三国志が始まるとともに、「諸葛孔明」の物語も始まるのです。

ここが、今まさに、言われている「シンクロニシティ - Wikipedia」 (英語:Synchronicity)とは意味のある偶然の一致。) が発生したとしか思えない出来事だったと思います。

閑話休題

最近、ある会社の若手社長から、地域の若い人たちの連携を図りながら、勉強をしたいので、難しくなく、興味の引くような、 何か得意な分野の講演が出来ないかと問われた。

私は、以前、営業推進が特別必要な職場に勤務していたが、テリトリーの管理方法とか、顧客のセグメントとか、特別顧客の管理方法とか、いろいろと得意の分野があったが、申し上げてみても、その社長は納得せず、私は、思わず三国志がどうかといってしまった。

そうしましたら、今、映画で「レッドクリフpartⅡ」も上映しているが、何か良い形で勉強できないか、とさらに 相談された。
だったら、「諸葛孔明」をターゲットにしたらどうかといったところ、その場は、納得して別れた。     

このような経過があって、もしかしたら、私は、近いうちに、「諸葛孔明」の話をしなければならなくなるかもしれない。わたしは、そのときに思った。そうだ、このようなときに、本棚にある「諸葛孔明についての本を読み直し、諸葛孔明の人となりを話すことが出来たならという、願望を持つようになった。 近いうちに、シリーズで、説明していきたいと考えている。 

現在は、石ノ森章太郎の漫画本を全て、パソコンに入力した。 入力した枚数は、A4の用紙で、25枚だった。フォントサイズは10.5で作成した。

初めて、入力した日は、2009年6月13日で、一旦、全部の入力が終了したのは、22日だった。約10日間・一日中ではないが、パソコンに入力をしていた。

石ノ森章太郎著の三国志・諸葛孔明は、漫画なので、簡単に入力できると軽い気持ちで、ワードに書いてきたが、思いがけず、時間がかかってしまった。

漫画といっても文字数は多く、最後は、もう、やめようという気持ちが、出たくらいだった。というのは、キーボードを押下したので、指先が痛くなってしまったし、目も疲れた。

また、文章もなるべく原作から逸脱しないようにと気を使った。 また、パソコンに入力をしていている間に、わたしはこう思うなどの気持ちが、抑えられず、また、ある場面では、後で書くことは出来ないので、自分の思いを勝手に付け足したりしたものだから、長編ものになり、それも疲れた原因である。

いまは、「文字校正・表記ゆれチェック・文字カウント・要約の作成・特定文字にだけにルビ付けをすることが出来るかなどを検討しているところだ。

わたしは、思った。

この漫画はよく出来ているので、Ⅰ人の作者だけでは完成しないと思う。漫画だから、まず、それなりの「登場人物の似顔絵など」が必要であり、当時の地図も必要ですし、当時の魏・蜀・呉の勢力図、劉備元徳軍の進軍した足跡を地図に書きこんだり、大変な作業だったと思う。

そのほかには、私がかつて、読んだ本のページ数は、吉川英治著の三国志は巻数10巻、頁数は2770頁であり、・陳舜臣著の諸葛孔明は2巻だが、頁数の合計は、上巻365頁・下巻は351頁、あわせて、716頁であった。そのほかにも所蔵している三国志・諸葛孔明関係の書物も大切に保管してあるが、これらを例にとっても、大量の文字数の中から、諸葛孔明だけを抽出して、漫画で表現することは、一大事業であったかと思う。

また、私は、ご縁があり、長野県飯田市の「川本喜八郎 人形美術館」に
http://www.city.iida.nagank.jp/puppet/kawamoto/
2度・3度と出向くことができて、館員のご協力で、川本喜八郎が表現した、三国志・諸葛孔明などの人形などもとても参考になった。感謝したい。

飯田市迄は、これからも引き続き出かけることが多いので、今後もいろいろとご指導を戴きたいと思っている。
 加えて、今回の三国志・諸葛孔明を講演するかもしれないということで、本棚を整理していったら、なんと、「諸葛孔明の謎」という本が出てきた。この本は、歴史読本ワールドといって、1991年8月に出版された本(定価990円)である。

その特集が「諸葛孔明の謎」だった。その特集の対談者は、川本喜八郎と横山光輝で、巻頭に特集会談があり、23頁から、37頁に亘って書かれている。この本の頁数は260頁だった。蛇足だが、どうもこの本は、雨にぬれたらしい。本のしたの部分が、水に濡れたようにガサガサしているが記憶にない。でも捨てないで、大切に保管してきたといえる。

また、最近、このような話が出来る快い良い友人にも恵まれたので、修正等のお願いが出来るならば、お願いし、順次、わたしの考えた諸葛孔明を発表したいと考えている。
 
だが、しかし、ここで、著作権の問題に突き当たってしまった。著作権というものは、私みたいな素人が踏み込むべきものではないと考えるが、出来る限り、慎重に執筆してみたい。

ちなみに著作権の侵害にならないためには、いろいろな項目をクリア-しなければならない。
自分の言葉で、発表しろということか・・・・

もう、挫折しそうだ。どうするか、少し、考えよう。????????

第一回終了



第二回
著作権の問題について勉強いたしました。

再送21.7.8 ある株式会社の著作権についての許可依頼文書 

当サイトに掲載されているすべての著作物(文章、写真、イラスト、 図画、映像、音声、プログラム、編集的な著作物、データベースおよびそれらの2次利用によって生じた著作物)には著作権(または肖像権)が存在しています。
これらの著作物は当サイトおよび運営主体である当社および著作権(または肖像権)の権利者の許諾なしに無断で複製、譲渡、公開、転載、改訂、変造、配信、貸与、翻訳、部分公開することはできません。
と、表示されているので、再度、下記メールを発送した。

ある株式会社様 宛メールの内容

21.6.28に、著作権の許可を得たいという、メールを差し上げましたが、その中で、参考とさせていただきたい旨の内容でしたが、その後、勉強したところ、私の文章は「引用」に該当すると判断いたしました。
そこで、厚かましいのですが、ご許可をいただけないでしょうか。
使用する内容は、「この本の中の三国志流れと諸葛孔明等の言動について」引用したいと考えております。私は、個人的な趣味の段階のものであり、利益を得るための許可ではありません。

使用する本の名称  三国志 諸葛孔明2004年1月発行
      内容  漫画  定価286円 一冊分に限定
お忙しいところ、すみません。

以上

21.6.28に、著作権の許可を得たいという、メールを差し上げました
その後、出版社の「世界文化社」にも同様のメールを差し上げました。
「世界文化社の担当者」からは、21.6.21 20時に下記のような電話にての丁寧なご指導を戴きました。早速、整理しましたので、ここに発表いたします。

1 本文が主、引用文が従の関係にあるもの— 例 主文60%・従文40%
  自分の主張を主体に書く。その場面は、引用のここなんだ。と明確に
2 原著作物が公表されているもの---- 引用した箇所を「   」でくくる
  引用することに必然性があるもの
3 引用の量が正当な範囲内(本文よりも短いもの)であること
  必要最小限の量であることが大切だ。ほんのわずかな、量であってもそこまで使うと著作権侵害になることがある。
4 本文と引用文の区別が明確であること
  自分の書いた文章ではない・主たる文章ではないということを明確に区分する。
  方法としては、段落、行をあける。分離せよ。
5 出所の明示化されていること—著者名・出版社名等
6 改変がされていないこと—原作のまま引用すること
7 その他として、
  学者の論文は、原作を引用しながら、独自の見解を記載するという方法を取っているのが一般的である。

  引用の判断は以上となり、この全てを満たしていないものは転載と判断することとなります。
  しかし、要件を抑えれば、okだということです。 

出版社の「世界文化社」の堀井様ご指導、ありがとうございました。

付記 その他の方の意見を参考とした場合は、次のような見解も示されています。
  ---個人的には、書誌情報として「著者・(出版年・)書名・出版社・引用したページ番号」を明記したうえで、引用した箇所を「   」でくくるだけで十分かと思います。

  『引用』についてという項目がありますが、このうち「出所が明示されていること」と「本文と引用文の区別が明確であること」  が大切だという考えです。---

結論として、私の場合には、既に自分のパソコンに「三国志 諸葛孔明」の漫画本の中身を全て、入力済みですので、もし、ある株式会社様から、再度のご返事がいただけなければ、注意深く、必要な各所を最小限使用して、また、明記も確実にするなどして、ご指導に準拠して書いてみたいと思うものです。 
 
                この項は一旦終了いたします。     
第二回終了



第三回
上海に三国志=三国城があった。

私は、ご縁があって、あるライオンズクラブの役員を無事終了しましたので、会長・幹事=私と会計の三役と上海旅行をしました。旅行の条件は、三国志関係のあるところと孔子廟のあるところを観覧することでした。後で、案内人がいうことに、「今回の旅行者は少し変わっているぞ」と思ったそうです。

皆さんは、上海に三国志=三国城という、赤壁の戦いを模した、観光地があることをご存知でしたか、火焼赤壁の写真の人物は、その三役の一人です。驚きました。







また、、水軍の演習場所もありました。






と言う看板が出ていて、内容は三国志を模してありました。中でも圧巻は、魏・蜀・呉の武将がその国ごとにまとまって立像として建っていました。

写真は、魏の国・呉の国・蜀の国  の順です。













また、張飛の売店もあって、驚きました。何かの本で読みましたが、張飛の商売は、
肉屋さんだったようです。





付近には、日本で見慣れているようなお土産屋もありました。






また、特別な部屋の中には、三国志の登場人物の人形が、展示されていました。全く変わっていた、上海の三国志でした。













第三回終了






第四回

赤壁の戦いに至るまでと曹操赤壁の戦いの勝利のポイントは、①諸葛孔明が計画して、呉の孫権(-周喩)と連合できた事が、ポイントとなっている。歴史の中にもし、が、無かったら、といわれているが、この計画を成し遂げたことが、諸葛孔明の活躍の第一歩であったと思う。

また、現在、吹いている風を反対側に吹かせるという、劇的なシーンは、レッドクリフでは、金城武の諸葛孔明が、空をじっと見つめている場面で表現したが、私の記憶では、確か、七星壇という、「火のみ櫓」に似ている祭壇の上段にのぼって、天に向かって、祈願している場面もあり、そのようなことから、諸葛孔明は、神がかり的なことをしたことから、ここから、神の域の人というように、徐々に恐れられていった。

さて、レッドクリフの映画の中で、諸葛孔明と周喩の二人が相対して、琴を弾いたが、しばらく演奏を続けているうちに、琴の音が言葉となって、あのお二人は、ヒフティ、ヒフティの応酬話法を続けていた。

あるときは、高く、また、低く、お互いの実力、人柄、意見、方針などを音によって、表現したのではないかと考えている。その中でも、冒頭でも書いたが、諸葛孔明は「いと、目元涼すずやかなり」の姿勢が、貫かれており、この場面は、三国志にとって、劉備元徳が三顧の礼により、諸葛孔明を軍師と迎えた、次の、大変重要なポイントだったといえる。

加えて、有名な言葉である「三顧の礼」とは、何か、を、お話したい。この言葉は、簡単に言えば、自分が「この人」と見込んだ人を自分のチ-ムに、お招きしたいということである。そのときに、相手の人が、1回では会えず、2回も訪問して会えず、3回目の雪のぱらつく日にやっとお会いできた。それで、いろいろと意見を交わした上で、自分のチームにきてくれることになった。

後世では、どうしても必要な人を自分の会社などに迎えいれることを「三顧の礼」をもって、招聘した、という言葉になった。
さて、劉備元徳は、①自分の理想に向かって、自分が信じる方針に、自分の理想・願望に沿って、戦略、戦術、実行を行なってくれる諸葛孔明という、軍師がそばにいてくれることになり、大いなる組織が出来たのだと思った。

また、実働部隊としては、関羽・張飛が、他者に引けを取らない武将であり、劉備元徳は、左右に最も信頼できる経営システムが出来上がった。「三国志の中でここから、この三役は大きく羽ばたくことになる。

特に「何もないところに何かを発すること。」「並の人が考えられない方針・戦略を立ててくれる人」を得て、戦闘部隊の関羽・張飛とともに、歴史舞台に登場するのだ。

以前より、誰でも天下を取るためには、「臥龍(ガリュウ)=諸葛孔明 鳳趨(ホウスウ)=龐統(ホウトウ)」のどちらかが、味方の軍師になれば、恐れることないと言われていた。その一人が、劉備元徳の軍師になったのだ。

次に②として、一般的に言われている10万本の矢を作って下さいという、要望を受けて、諸葛孔明は、いとも簡単に引き受けて、10万本の矢の取得を実行した。この辺は、孫権側から、いわれたことであったが、物語の中では、相手の申し出を完了しても、諸葛孔明は、平然として、騒がず、驕らず、いつもの姿勢だったと思うので、そのところは、すごい役者であったかと思う。

このような10万本の矢・船団の連結が、曹操軍の力をある程度、そぎ落としたのではないかと思う。これらのことを諸葛孔明の兵法のしたたかさが感じられる。

でも、諸葛孔明も10万本収集の要請を受けて、どのようにすればよいのか、戦術を考えたに違いない。結果として、よかったということになった。ただ、鳳趨(ホウスウ)=龐統(ホウトウ)」とは、親交があったと思うので、お互いに意見の交換をしたかもしれない。

さて、曹操の大船団は、陸地で戦ってきた軍隊であったので、船酔いが一番のウイークボイントとなった。船酔いを防ぐためには、一般的には、なるべく、船団を動かさないようにすれば、船酔いが少なくなるだろうということから、曹操の部下が、曹操に対して、船団を繋いでしまい、「揺れ」を最小限にした方が良いと進言した。曹操は、その戦術を受け入れて、戦いに望んだ。

そして、映画のように、大敗した。しかし、曹操という人間は、大敗をしたからといって、くよくよしない人であった。負けたときには、負けたと、はっきり認識できる人間であったと思う。現在でも、「負けを認めない人」に、出会うことがあるが、言い訳ばかりして、すっきり、負けを認めることが出来ない人間は、本当の負けに向かって、進んでしまうことを知らないかもしれない。

曹操は、後の手痛い敗戦に対して、曹操の兵法といわれている言葉がある。それが、このブログの最初に書き出してある。詩である。曹操が負け、背走したときに、部下が渇してしまった。そこで、曹操は、もう、少しだ、あの山を越えれば、「梅林があるぞ」といって、部下を元気づけた。加えて、続いて敗戦となった曹操は、また、自作の詩を口ずさんだ。それが、下記の歌だ。
「梅酸は酸なり、敗戦もまた、酸なり、同じからずといえども似たり、心舌を超えて甘し」 だった。(吉川英治三国志第三巻)


第四回終了


第五回


最初の登場人物が何年間生きたのかを記述した。
                            
         生年     死去年   何歳
 蜀漢
 武将 関羽雲長   ? 年    219年    ?
 武将 張飛翼徳   ? 年    221年    ?
 君主 劉備玄徳 161年    223年   62歳
 軍師 諸葛孔明 181年    234年   53歳

 君主 孫権仲謀   ??       ??        ??
 軍師 周瑜公瑾  17 5年   210年    35歳
 武将 黄蓋公履  ??        ??       ??
 武将 甘寧興覇  ??        ??       ??
 武将 魯粛子敬  ??        ??       ??

このような年齢を見ると三国志の登場人物は、生年月日は、わからない人が多いが、死亡の年齢を見ると210年219年
221年223年234年であり、時代はこのような登場人物を配したのだろう。それと蜀漢の死亡の年齢だけが、判っている
ようだが、いまから、1800年前のことだからだから、空想的な要素が沢山あり、三国志は、諸葛孔明を引き立たせる
ために、書かれていると感じた。諸葛孔明が死んでからは、大概の本は、その後の概略を書いて終了している。
蜀漢とは、以前、漢という国があり、ずっと後に劉備元徳の作った漢の国と区別するために蜀漢となずけられている。


孫策と孫権についての記述は、先頭に記述しましたので、ご覧ください。


第五回終了




第六回

三国志の舞台となった、場所は、およそ、どこの場所であったのかをお話したい。
地図を作成しましたが、研究の余地があるので、申し訳ありませんが、記述します。
             
1 北方方面 魏の国があります。この国は、現モンゴルや現ウランバートル付近に国境が接しています。南方面の境界線は、大雑把に言って、「黄河」という、大きい河が、魏の国の南側の境界としてよいと考えます。ここが、曹操の国でした。


2 その南側方面に垂直に降ろした地点に呉の国があります。この呉の境界線は、おおまかにいうと「ハノイ・ラオス・ミャンマー」などの付近に国境が接しています。この南方面の境界線は、大雑把に言って、「長江」という、大きい河の南側に呉の国があると考えます。ここが、孫権の国でした。そして、この「長江」が赤壁の戦いの舞台となっているところです。


3 その呉の国の南側から、左上・西側に、「蜀の国」があります。「長江の上流にある地点」と考えます。呉の国があります。呉の国と境界線は、接していたと思います。だから、諸葛孔明は、同盟を結ぶために、呉の国へ説得に行ったのだと考えます。蜀の国が、曹操の領土になれば、その次には、呉の国もやられるぞ。と、言って説得したのではないかと思います。レッドクリフの上映の諸葛孔明が、そのような説明をしたと思います。


4 さらに、呉の国から、地図の上で、右上を見ますと、そこは、「有名な太湖」を経て、「上海」があります。私が、上海に行ったとき、「三国城があるといって、驚いたのは、私の浅学非才をさらけ出した様なものでした。ああ、恥ずかしいことでした。」このようことは、地図を辿ってみると自然に理解できます。


第五回終了








第七回

第六回の中で、各国のおよその配置図を手書きしたが、長江は、三国志において、重要な役割をしていると思う。
世界の河を調べてみたら、長江は世界第三位の河だった。ある意味でこの河を中心に戦争が行なわれていたのではないかとも思う。なぜならば、戦争時には兵糧などは、舟による運搬も多かっただろうと考えると、呉の国がいつも優位に立っていることにきづく。三国志の本を読むと一群段の兵士の数は、極端に多いので、兵糧、つまり、兵士の食料などの運搬が、おおきな課題となっていたのではないかと思う。


   川      長さ(km)         域面積(km²) 平均  流量(m³/s) 河口 国
1. ナイル川     6,695           2,870,000  2,800 地中海 スーダン- コンゴ民主共和国
2. アマゾン川    6,516           7,050,000 222,440 大西洋 ブラジル- ベネズエラ
長江     6,380(5,797)    1,175,000 21,790 東シナ海 中華人民共和国
4. ミシシッピ川   6,019           3,250,000 16,200 メキシコ湾 アメリカ合衆国(98.5%), カナダ(1.5%)
5. オビ川      5,570*           2,430,000 12,800 オビ湾


書きかけになってしまいました。続きは、今月中に書き足します。
何を書くかといえば、陸上の食料はどのような形で、調達していたかの資料が発掘されたそうで、その辺を書いてみたいです。

閑話休題
第七回終了



第八回

実は、2009.7に中央大学創立125周年記念学術講演会がありました。

その講演の題名は、「レッドクリフの舞台裏」というのでした。
どのような方でも聞きにきても良いとのことでしたので、どのようなお話かと勇んで松本の会場・深志神社までいつて、聞いてきました。

講師は、中央大学文学部教授の安部幸信という比較的若い先生でした。
講演の後、わたしは、質問などをしましたが、出土した木片などが、これから分析されるとのことで、三国志には、また、いろいろいな情報が駆け巡るのではないかと思います。

その際資料をいただきましたので、帰り際に私のブログに乗せたいという、許可をいただきましたので、その一部を参考にして、私の勝手な空想を書いてみたいと思います。

さて、その内容は
 「レッドクリフの舞台裏」とは、「長沙走馬楼呉簡」からの情報でした。
三国時代の研究は、人気の高さにかかわらず、正史「三国志」以外に依拠できる文献がなく、研究者としては、むずかいし時代であった。という。

ところが、1996年に湖南省長沙市の走馬楼で総数10数万点といわれる大量の孫呉の「走馬楼呉簡」が発見された。これによって、三国志時代の研究に新しい方向が、見え始めている。その一端を講演された。

講演のあと、質問の時間がありましたが、誰も質問されなかったので、終了を早めるために、また、ひとつのケジメが必要と思いましたので、私がしゃしゃり、出ました。

三国志のブログを書いているといっても遠慮のないことでしたね。
私の質問は、先生の話された「走馬楼呉簡」の情報では、賦税類大木簡・名籍類竹簡・官府文書の三種類が出土されたそうである。
現在は、公表されているのは、「賦税類大木簡」のみに止まっているそうです。

その一部を紹介されましたが、嘉夭4年・嘉夭5年(年号は カカと読むようだ。)の「賦税類大木簡」の中には、税率が書かれていて、例えば、嘉夭4、5年の米の等級が3つに定められていて、最等級の常限熟田には、「1.2」と税率が記載されている。このとき、貨幣での納付も認められていたようだ。

私は、これから、これらの貴重な資料が分析され、発表されたなら、小説の題材として、一段と面白い展開があるような期待をしています。

ところで、私が質問した内容は、次の二つでした。
① 三国志を書いてある、いろいろな本を読みますと、劉備軍5万人対曹操軍20万人などと書かれていますが、その兵士の食料 は、とのように調達してきたのですか、また、その兵糧を運ぶ人員も入れての数字だと思いますか・・・
② 次に、本の中にも戦争を始めるのは、今は季節が良くない、来年にしようなどと書かれていますが、これも嘉夭4、5年の米の作柄が悪かったという情報が書かれているようでしたので、どう思いますか・・・

この答えは、講師も出席した方たちも、笑ってしまい、調査が進めば、次第に解明していくのではないかということで、ただ、今言えることは、過去の文献はなんにもない中で、いろいろと空想して書いたことが多いが、これからは、今回の呉の国の記した記録が精査されれば、今までと違った、空想小説から、数値的な文献を元にした、小説が書かれてくるというお話があって、終了した。

第八回終了

第九回


22年5月2日 連休で、会社の報告物が終了しましたので、報告いたします。

大変、遅くなりました。これから、曹操の埋葬場所について、私の知りえたことなどを記述してみます。
三国志の漫画を見ても、蜀の劉備らは、比較的、好意的に描かれているが、魏の曹操などは、冷徹であり、魏の代々、計り知れない、野望を抱くと考えられている。

2009年12月29日のある新聞社の朝刊に見たところ、その曹操の墳墓が河南省安陽県で発掘されたそうである。
このことは、本当に私のかすかな記憶をたぐって見れば、ず------っと、昔、このような発表があったように思っている。
そう思って、この新聞を読んでみると、
この陵墓は、基本的には、誰を埋葬したものかは、分かっていない様である。
2009年に中国の担当省が、発掘を進めてきた、結果、曹操の墓であることを示す、「魏武王」の刻まれた、銘文が見つかったらしい。また、男性の遺骨も見つかったそうで、暫定的な鑑定の見地からは、60歳くらいだそうである。曹操は60才ころ、なくなったらしいので、本人のものらしいと思われる。ということだ。

しかし、私は、盗掘が進んでいて、以前発表されたところが、時代の変遷を経て、また、脚光を浴びるなどというのは、(もしかしたらですよ。)曹操の偉人たるを証明するようであり、現代でも遠く、昔の出来事が不意に、身近に感じることができて、ますます、三国志の深みに昏倒してしまう。
曹操は、多芸であり、特に詩に秀でていたらしい。この時代の曹操の短歌集が見つかった様である。
詩の才能は、子の曹ひ、曹植にも受け継がれた。今回の発見も詩集があるというようなことが証拠に発表されたのであろうか、前提となる、出土品を調査すれば、多くのことを物語ってくれるはずだ。
歴史は、どこかが、同じで、どこかが、違うかもしれないが、興味は尽きない。


第九回終了

第十回
どうしても以前から、気になっていた、赤壁の戦いの霧のことだけど、私は、諸葛孔明は、何故、知っていたかを考えてみた。
それは、諸葛孔明は、劉備元徳に招聘されるまでは、田舎に住んでいたという。その田舎に住んでいた頃、あらゆる勉強を
していたと思う。赤壁の気候とか、当時の活動範囲のかなりの部分の気象・地理、人種・更には、攻略方法などを考えていたのではないかと思う。戦略家だから、・。
赤壁の戦いのときには、レッドクリフでは、じっとして、そのときがくるまで、悠然としていた。ところが、吉川英治の小説・三国志には、たしか、このときの状況が、しっかりと書かれている。七段の祭壇を造り、その上に載って、風が来るようにと「祈願」をしたのだ。このようなことが私の気持ちに強く、残っていた。
それで、hpを検索して、気になったものを下記に記すが、きっと、このようなことが事前に理解していたに違いないと思う。

トップ > お天気質問箱 > 現象 > 霧の発生原因について

放射霧は地面付近が冷えて発生するといわれており、川に発生する今回の質問のような霧との関係がわかりにくいと思います。川に発生する霧には2通りあり、いわゆる川霧(移流霧)と蒸発霧です。前者は川の上の空気の温度が川面より高くて、水面で空気が冷やされて出来る霧、後者は川面の上の空気の温度が低くて水温が高いため蒸発して発生する霧です。今回の質問の場合は、まさに前者と思いがちですが、後者の気がします。市街地は路面の温度が周囲より高いため霧が出ても薄く、そこより低い田んぼの方が霧が濃くなります。田んぼからの蒸発もありますが、主には冷え込んで出来た霧です。川は春の雪解け時には水温が低く霧になりやすいわけです。この場合は移流霧です。しかし、秋など霧の出やすいときは、あるいは放射冷却が強いときは川面の水温が高くて蒸発霧となることが多いのです。すなわち、放射冷却で冷えた空気が川面で温まった湿った空気と混合して霧が発生するのです。放射霧の多くが川のある盆地なため、放射が優先か、混合が優先か、蒸発が優先か、全てがミックスしたものか大変興味のあるところです。このあたりのことが、日本気象学会の機関紙天気41(1)『恵那地方の盆地霧の特性について』(1994.1)小気候団体研究会に詳しく載っています。

ということです。

第十回終了

第十一回

久しぶりにパチンコをやった。私は、自慢ではないが、あまり長くプレイができない。どんなに
たくさん出ても、ある時間的限界が来るとさっさとやめてしまうのだ。これは、長くやると疲労が
濃くなることと、息抜きにやっているためである。いやになってしまう性格がある。
ところが、驚いた、最近のパチンコのゲーム性は、ここまで来たかというところまで、到達している。
それが、「ばちんこ 三国志」なのだ。私は、ゲームだけをやりたいわけではなく、どのような流れがあるのかを知るためにプレイもしているのだ。たまたま、イヤニなると店員にお客さん、こんなに出ているときにもやめるんですか??と問われても多い。
 まあ、そのことはさておき、当たらし物すきな私だから、どうせでないと思っても「ばちんこ 三国志」の前に座りました。そうしたら、ごくわずかな時間に「確変」があたってしまい、なまじっか、三国志を知っているので、どのような表現方法になっているのかも知りたくて、23時ごろまで、どんどん出るものだから、遂遂、遅くまでやってしまった。この三国志は、劉備元徳の蜀の国が、各国とどんどんと戦って、中国の全土を支配する方向にあった。パチンコ玉も沢山出た。私は、あと、15カ国ぐらい?、制圧すれば、中国を制定するところまでいったが、もう、やめてくなって、しまって、結局やめました。
しかし、この三国志の画像、登場人物、その展開などは、素晴らしく、パチンコといって侮れなく、知らない人だと単なるゲームであるが、私は、ここのところは、このように表現しているとか、なんていったって、構成・色彩・流れは、楽しめるものであった。
今までの連載と少し、流れが変わったのではないが、日本人にとって、三国志は、現代のバイブルとも言える書物であり、パチンコまで、登場したということでは、一大事なことではないだろうか。

第十一回終了

第十二回

書く、勇治の孫の敬翔といいます。僕の書いた文章をおじいちゃんにアップしてもらいました。

ぼくは、「三国志 絵巻」という本を安曇野市立図書館で借りて読んでいます。

おじいちゃんは、三国志が好きだというのを聞いて、それで、ぼくも、すきになりました。

学校の図書館にも2さつ、あります。

あと、おじいちゃんとぼくは、「シンクロネスティ」という、歌が好きです。

お父さんとお母さんは「ガチャガチャばんど」と言っています。

でも、ぼくは、大大大すきです。

ぼくがいま、一番ほしいものは、「DSアイ」です。

カセットは「ニュ-スーパーマリオブラザーズ」と「マリオカートDS」です。

読んでくださって、本当にありがとうございました。




次のをごきたいしてください。






シジイの発言
本文はjpgに落としたのちに発表したいと思っています



このような出来事が発生するとは、思いもよりませんでした。

小学3年生でもすごいことだと私は、思いました。



第十二回終了





























  

 

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